読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

円城塔「つぎの著者へつづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)

前回の記事で、ウィトゲンシュタインの『黄色本』が円城塔の「つぎの著者へつづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)に出てくると書いた。

その挿話を見かけたのは何処の本でのことだったのかを問いかけられて、私は即座に黄色本と答えるのだが、ウィトゲンシュタイン講義ノートに黄色本などという代物が存在しないことはすぐさま思い出されてしまう。(p.157)
この箇所についた注にはこうある
※32 ウィトゲンシュタインの著作は「茶色本」と「青色本」である(ウィトゲンシュタイン全集六「青色本・茶色本」大森荘蔵訳、大修館書店) (p185)
しかし、一連の文章はなにを言いたいのかよくわからない。『黄色本』の抜粋は野矢茂樹訳『ウィトゲンシュタインの講義 1932-1935年』に収録されているので、『黄色本』などという代物はちゃんと存在する。ちなみにおそらくアンブローズによる副題は「『青色本』に先立つ講義」とあり、1933-1934年のものであることもわかっている。『青色本』や『茶色本』は、彼自身がミスプリントや誤字を修正しており、『茶色本』に関してはドイツ語での改訂を行い、出版する計画まで立てていた。学生の講義ノートから編集した『黄色本』は信頼度が低く、ウィトゲンシュタインの著作として認められるのは、『青色本』と『茶色本』である、という意味で読めば、この注の意味は通る。
しかし、そうすると本文の意味が通らない。「ウィトゲンシュタイン講義ノートに黄色本などという代物が存在しない」とあるが、そもそもウィトゲンシュタイン講義ノートというものは存在しない。だから、「もちろん、茶色本や青色本も存在しない」という奇妙な付け足しをしないとこの文章は意味が通らなくなる。ウィトゲンシュタインの講義に出席していた学生がとったノート、という意味であれば黄色本という代物は存在するし、あるかはわからないウィトゲンシュタイン自身のノートという意味であれば、強く「黄色本などという代物は存在しない」とワザワザいう理由がいまいちわからない。奇妙に思ったのでここに書き残しておきます。