ウィトゲンシュタインの恋人

少し前,ウィトゲンシュタインとスキナーの関係について伝記本などから記述を集めた。人に見せるためにまとめたわけではないけど,読み返したら意外と面白かったので公開します。基本的にはモンクの伝記からの引用です。バートリーの本は読んでません(特にこのトピックに興味が有るわけではないので)。

追記:大幅に加筆した(2015.11.23)https://41.media.tumblr.com/8890375ec2ec53d80382aa686370e6f8/tumblr_nqp0wbYdJn1uy7ftao1_1280.jpg

https://40.media.tumblr.com/7448953f711a7b7377a23e5718c4695a/tumblr_nqp0wbYdJn1uy7ftao3_r1_400.jpg

  1. 1933年、ケンブリッジにてウィトゲンシュタインとフランシス・スキナー(スキナーに比べて背が低く見えるがウィトゲンシュタインの身長は175cm程度である)
  2. ウィトゲンシュタインによってケンブリッジで撮影されたフォニア・パスカル

スキナーに贈った『論理哲学論考』の写真が以下のサイトで見れる

http://www.editor.net/BWS/newsletter/newsletter18.htm

シドニー・フランシス・スキナーは1930年にケンブリッジにやってきた若い数学者だった。1912年6月9日、サウスケンシントン生まれ。性格は内気で、控え目で、身なりがよく、驚くほど穏やかな彼と一緒にいると「むらむらとし、感じやすくなり、不作法になった」とウィトゲンシュタインは書いている。また、「二回か三回、フランシスと寝た。いつも最初は、何も間違ったことはしていないと感じるのだが、あとになって恥ずかしさが襲ってくる*1」とも。 

ロシア語の家庭教師であり哲学者のフォニア・パスカル(Fanja Pascal)*2によると、二人は一緒にロシア語のレッスンを受けに来ていたそうだ。イーストロードにある小さな食料雑貨店の上のアパートを借りて一緒に暮らしていたこともあった。この同居を開始したのは1934年頃からである。

パスカル夫人はスキナーについて「彼は陽気で他の仲間たちに好かれました。どんなことであれ、ずるさがなく、どんな人間も悪く考えることができませんでした。彼はもっと現実的でありえたし、そうしようとしたのですが、悲しいかな、彼はいつもあまりにも利他的で、あまりにも控え目でありすぎたのでした」と語っている。

1933年11月8日から1934年6月の第1週にかけて、ウィトゲンシュタインは学生たち(アリス・アンブローズ、H.M.S.コクスター、R.グッドシュタイン、ヘレン・ナイト、マーガレット・マスターマン、フランシス・スキナー)に口述をし、筆記させた。ウィトゲンシュタインはこの謄写版によるコピーを作らせたが、表題がついていなかったので、表紙の色にちなんで『青色本(Blue Book)』と呼ばれるようになった。ウィトゲンシュタインはその二年後にミスプリントや誤りを直す作業をしており、一部をラッセルに送っている。また時期は不明だが、シュリックにも一部与えたようである。ウィトゲンシュタインは『青色本』を口述筆記させている期間、マスターマン、アンブローズ、スキナーを相手に、講義をし、それ以外の場でも議論をした。この記録はアンブローズにより『黄色本(Yellow Book)』*3として公表されている。1934年から1935年の講義でウィトゲンシュタインはフランシス・スキナーとアリス・アンブローズの二人だけに向かって英語で口述を行い、このタイプされたコピーをたった3部だけ作らせ、非常に親しい友人や学生だけに読ませた。しかし、このコピーを読んだ学生がコピーを作ったため、コピーの取引が行われるようになった。これは表紙の色にちなみ『茶色本(Brown Book)』と呼ばれるようになる。『青色本』『茶色本』の二冊について、ウィトゲンシュタイン自身は「これを理解するのは非常に難しいと思う」と話している。

教職に就き講義を始めた直後の1934年から、ウィトゲンシュタインは教職を辞し、ソビエトに移住し、農業労働者として生活することを計画している。そのロシア移住の実現に備えて1934年にはロシア語を家庭教師(パスカル夫人)について学んだりニコラス・バフチン*4のようなロシア人の友人と交遊したりしている。その秋にはスキナーとともにアイルランドにかつての教え子ドゥールリーを訪ねている。これはダブリンで精神科医の仕事を始めていたドゥールリーに自分が医師となってロシアに移住する可能性を打診するためであった。そして翌1935年には実際にロシア(当時のレニングラードとモスクワ)へ視察的旅行も行っている。この旅行にはスキナーも同行する予定であったが、病気のため断念している。スキナーの健康状態はいつも不安定であった。彼は子供の時に骨髄炎にかかり、それを繰り返し患ったため、片足が不自由な身であった。ウィトゲンシュタインは論理学者ソフィア・ヤノフスカヤと会い、哲学教授のポストを約束されるが、決心のつかないままイギリスに帰国した。結局ウィトゲンシュタインはこの移住計画を断念してしまう。何故ならウィトゲンシュタインは農業労働者として働きたかったのだが、ソ連が彼に哲学者以外の職を与えることはないとわかったからだ。こうした彼の行動や友好関係は、ケンブリッジソ連のスパイの勧誘活動をしているのではないかとの噂をよぶことになった。

ある理由から*5『茶色本』の出版を検討していたウィトゲンシュタインは1936年8月27日、ジョルデンの小屋にこもりドイツ語での改訂を試みた。ウィトゲンシュタインは「哲学探究、改訂の試み」とこの作業を呼んだが、第2部の§13の前まできて、「p.118からここまでの「書き直しの試み」は無価値である」と書きなぐり、この「退屈で不自然」な計画を放棄した。このドイツ語での改訂版は『哲学的一考究(Eine Philosophische Betrachtung)』という表題で死後、出版されている。そして同時期に新たに書かれた原稿が、『哲学的探究(Philosophische Untersuchungen)』の第Ⅰ部の書き出しである。11月から12月にかけて1節から188節までを書き上げる。

スキナーはウィトゲンシュタインのアイデアを書き取ること以上のこと、議論すること、思想を明瞭化することはできなかった。ウィトゲンシュタインは「彼はアカデミックな生活では絶対幸福になれないだろう」と、彼がアカデミックな研究を続けていくことに賛成ではなかった。スキナーはこれを受け入れたが、これをアカデミックな生活が嫌いなウィトゲンシュタインの不幸な影響に過ぎないとみなした彼の友人や家族は、強く反対した。1931年の数学の優等卒業試験の第一部で「一級」を受け、1933年に受けた第二部でも「一級」を受けたスキナーの才能を思えば、無理もないことであった。ウィトゲンシュタインが医学の勉強をやり通すためのの経済援助をする、というケインズの約束は彼にまで及ばず、フランシスは大学を去り、まずは庭師として、そして彼の才能が全く役に立たない工場の機械工として訓練を受けた。後に、フィルマ・パイ社に移る。ケンブリッジ・インストルメント会社で二年間の機械工見習いとして採用されたスキナーは、ウィトゲンシュタインのために忍耐して、まったく楽しみも興味もわかない大ネジの製作に従事した。スキナーはウィトゲンシュタインと一緒に生活することをなによりも望んだが、愛が保持されるためには分離、ある距離を必要とするというウィトゲンシュタインのワイニンガー的な愛の観念からこれを拒否されている。スキナーはワイニンガー的な愛の観念を共有していなかった。しかし、この後、ウィトゲンシュタインノルウェー行きをきめたのは彼から離れるためであった。

1937年8月10日にウィーンからショルデンに戻り、ショルデンでの家政婦的存在であったアンナ・レブリーと8月26日くらいまで同居生活したが自分の家には戻ることができなかった。その間にフランシス・スキナーの優しさ、存在の大きさに気づき、8月23日頃に手紙を書き彼を呼び寄せ出迎えた日が9月18日。その夜に性の交わりがあった、らしい。

以下はショルデンで書かれた手紙

私の以前の愛、あるいは夢中になったときのことを考えよ。マルガリートと私のフランシスへの愛のことを。マルガリートへの私の感情がまったく冷たかったことは私が悪いのだ!確かにここには違いがある。それにしても私には冷たさがある。私を許したまえ。つまり、誠実で愛することができますよう。(1937/12/1)

昨晩自慰した。罪の意識。しかし他のことに逃避できずに、かくかくの像が自分のなかに現れてくるときに、あまりに弱く、その衝動と誘惑に打ち勝つことができないことをまたも確認させられた。けれども、「昨夜」、私はまだ自分のおこないを浄らかにすることが必要だと考えた。(私はマルガリートとフランシスのことを思っていた)(1937/12/2)

1938年の初め、いつまでも消えないスキナーへの情欲に自分でも困惑していたウィトゲンシュタインは、日記に乱暴に走り書きをした。

思索:彼が死んでいてくれたらよかったのにと思う。そうしたら私のこの愚かしさも消えてなくなるのに。……だが、もちろん、ちょっとそんな風に思っただけだ。(1938/1/4)

1930年代の終わりからウィトゲンシュタインとスキナーの関係は急速に冷えきっていった。1941年の10月上旬、ドイツ軍がOakington英国空軍基地(RAF)を爆撃し、犠牲者はケンブリッジの病院に殺到した。ポリオに感染していることに気付かれず入院した患者が処置も受けられず廊下に放置されていた。これが原因でスキナーはポリオに感染し、1941年にわずか29歳で亡くなっている。

スキナーの死に対するウィトゲンシュタインの最初の反応は慎みのある、悲しみを抑制したものであった。友人たちへフランシスの死を告げる手紙に、彼はやっとの思いで、穏やかな威厳のある態度を示す言葉を綴った。しかし、葬儀の時には彼の抑制は失われていた。スキナーの妹はウィトゲンシュタインが「おびえた野生の動物」のように振る舞ったと証言している。ウィトゲンシュタインはスキナーの家族には歓迎されなかった。それはウィトゲンシュタインがスキナーに与えた影響を好ましく思っていなかったのもあったが、特に彼の母親はケンブリッジ・インストルメント会社での仕事がスキナーの死を早めたと信じて、葬儀ではウィトゲンシュタインと口をきこうとしなかった。

1941年12月28日にウィトゲンシュタインはこう書いている。

フランシスのことを多く考えた。しかしいつも私の愛のなさゆえに後悔しかない。彼に感謝をして考えたのではない。彼の生と死は私を苛んでいるだけのようだ。なぜなら、私は彼の最後の二年間に非常にしばしば愛を喪失し、心の中では彼に不誠実であったからだ。彼があれほど際限なく穏和で誠実でなかったなら、私は彼をまったく愛さなかったであろう。

私がフランシスと一緒にいた最後の時期のことを非常に多く考えた。私の彼に対する忌まわしさについて……私の人生においていったいどのようにして、私がこの罪から解放されうるのかわからない。(1941/12/28)


メモ 2011年に発見された新資料に関しての記事

http://www.theguardian.com/books/2011/apr/26/wittgenstein-lost-archive


*1:『草稿』1937.9.22

*2:ここには書かないが、パスカルウィトゲンシュタインとの印象的な思い出をいくつも書き残しており、そのうちの一つはH.G.フランクファート『ウンコな議論』(山形浩生訳)で取り上げられている

*3:ちなみに円城塔「つぎの著者へつづく」(『オブ・ザ・ベースボール』収録)に登場する。

*4:名前から分かる通り、ミハエル・バフチンの兄。

*5:『哲学的探究』序文を参照